上野

上野

震災の後上野の公園も日に日に旧観を改めつつある。まず山王台東側の崖に繁っていた樹木の悉く焼き払われた後、崖も亦その麓をめぐる道路の取ひろげに削り去られ、セメントを以て固められたので、広小路のこなたから眺望する時、公園入口の趣は今までとは全く異るようになった。池の端仲町の池に臨んだ裏通も亦柳の並木の一株も残らず燬かれてしまった後《のち》、池と道路との間に在った溝渠は埋められて、新に広い街路が開通せられた。この溝渠には曾て月見橋とか雪見橋とか呼ばれた小さな橋が幾条《いくすじ》もかけられていたのであるが、それ等旧時の光景は今はわずかに小林清親の風景板画に於てのみ之を見るものとなった。
 池の端を描いた清親の板画は雪に埋れた枯葦の間から湖心遥に一点の花かとも見える弁財天の赤い祠を望むところ、一人の芸者が箱屋を伴い吹雪に傘をつぼめながら柳のかげなる石橋を渡って行く景である。この板画の制作せられたのは明治十二三年のころであろう。当時池之端数寄屋町の芸者は新柳二橋の妓と頡頏《けっこう》して其品致を下さなかった。さればこの時代に在って上野の風景を記述した詩文雑著のたぐいにして数寄屋町の妓院に説き及ばないものは殆《ほとんど》無い。清親の風景板画に雪中の池を描いて之に妓を配合せしめたのも蓋《けだし》偶然ではない。
 上野の始て公園地となされたのは看雨隠士なる人の著した東京地理沿革誌に従えば明治六年某月である。明治十年に至って始て内国勧業博覧会がこの公園に開催せられた。当時上野なる新公園の状況を記述するもの箕作秋坪の戯著小西湖佳話にまさるものはあるまい。
 箕作秋坪は蘭学の大家である。旧幕府の時開成所の教官となり、又外国奉行の通訳官となり、両度欧洲に渡航した。維新の後私塾を開いて生徒を教授し、後に東京学士会院会員に推挙せられ、ついで東京教育博物館長また東京図書館長に任ぜられ、明治十九年十二月三日享年六十三で歿した。秋坪は旧幕府の時より成島柳北と親しかったので、その戯著小西湖佳話は柳北の編輯する花月新誌の第四十四号からその誌上に連載せられた。佳話の初にまず公園の勝概が述べてある。わたくしは例によって原文を次の如く訓《よ》み下《くだ》す。
「忍ヶ岡ハ其ノ東北ニ亘リ一山皆桜樹ニシテ、矗々タル松杉ハ翠ヲ交ヘ、不忍池ハ其ノ西南ヲ匝《メグ》ル。満湖悉ク芙蓉ニシテ※[#「梟」の「木」に代えて「衣」、第3水準1-91-74]々タル楊柳ハ緑ヲ罩ム。雲山烟水実ニ双美ノ地ヲ占メ、雪花風月、優ニ四時ノ勝ヲ鍾《アツ》ム。是ヲ東京上野公園トナス。其ノ勝景ハ既ニ多ク得ル事難シ。況ヤ此ノ盛都紅塵ノ中ニ在ツテ此ノ秀霊ノ境ヲ具フ。所謂錦上更ニ花ヲ加ル者、蓋亦絶テ無クシテ僅ニ有ル者ナリ。[#ここから割り注]中略[#ここで割り注終わり]近歳官此ノ山水ノ一区ヲ修メ以テ公園トナス。囿方数里。車馬ノ者モ往キ、杖履ノ者モ往ク。民偕ニ之ヲ楽ンデ其大ナルヲ知ラズ。京中都人士ガ行楽ノ地、実ニ此ヲ以テ最第一トナス。」
 上野の桜は都下の桜花の中最早く花をつけるものだと言われている。飛鳥山隅田堤御殿山等の桜はいずれも上野につぐものである。之を小西湖佳話について見るに、「東台ノ一山処トシテ桜樹ナラザルハ無シ。其ノ単弁淡紅ニシテ彼岸桜ト称スル者最多シ。古又嘗テ吉野山ノ種ヲ移植スト云フ。毎歳立春ノ後五六旬ヲ開花ノ候トナス。」としてある。そして桜花満開の時の光景を叙しては、「若シ夫レ盛花爛漫ノ候ニハ則全山弥望スレバ恰是一団ノ紅雲ナリ。春風駘蕩、芳花繽紛トシテ紅靄崖ヲ擁シ、観音ノ台ハ正ニ雲外ニ懸ル。彩霞波ヲ掩ヒ不忍ノ湖ハ頓ニ水色ヲ変ズ。都人士女堵ヲ傾ケ袂ヲ連ネ黄塵一簇雲集群遊ス。車馬旁午シ綺羅絡繹タリ。数騎銜ヲ駢ベ鞍上ニ相話シテ行ク者ハ洋客ナリ。龍蹄砂ヲ蹴ツテ高蓋四輪、輾リ去ル者ハ華族ナリ。女児一群、紅紫隊ヲ成ス者ハ歌舞教師ノ女弟子ヲ率ルナリ。雅人ハ則紅袖翠鬟ヲ拉シ、三五先後シテ伴ヲ為シ、貴客ハ則嬬人侍女ヲ携ヘ一歩二歩相随フ。官員ハ則黒帽銀※[#「筑」の「凡」に代えて「卩」、第3水準1-89-60]、書生ハ則短衣高屐、兵隊ハ則洋服濶歩シ、文人ハ則瓢酒ニシテ逍遥ス。茶肆ノ婢女冶装妖飾、媚ヲ衒ヒ客ヲ呼ブ。而シテ樹下ニ露牀ヲ設ケ花間ニ氈席ヲ展ベ、酒ヲ煖メ盃ヲ侑ム。遊人嘔唖歌吹シ遅遅タル春日興ヲ追ヒ歓ヲ尽シテ、惟夕照ノ西ニ没シ鐘声ノ暮ヲ報ズルヲ恨ムノミ。」となしている。
 桜花は上野の山内のみならず其の隣接する谷中の諸寺院をはじめ、根津権現の社地にも古来都人の眺賞した名木が多くある。斎藤月岑の東都歳事記に挙ぐるものを見れば、谷中日暮里の養福寺、経王寺、大行寺、長久院、西光寺等には枝垂桜があり、根津の社内、谷中天王寺と瑞輪寺には名高い八重咲の桜があったと云う。
 一昨年の春わたくしは森春濤の墓を掃《はら》いに日暮里の経王寺に赴いた時、その門内に一樹の老桜の、幹は半から摧《くだ》かれていながら猶全く枯死せず、細い若枝の尖《さき》に花をつけているのを見た。また今年の春には谷中瑞輪寺に杉本樗園の墓を尋ねた時、門内の桜は既に散っていたが、門外に並んだ数株の老桜は恰も花の盛であったのみならず、わたくしは其幹の太さより推測して是或は江戸時代の遺物ではあるまいかと、暫く佇立《たたず》んでその梢を瞻望《せんぼう》した。是日また大行寺の門前を通り過ぎて、わたくしは偶然東都歳事記に記載せられた垂糸桜の今猶すこやかである事をも知ったのである。わたくしは桜花の種類の多きが中に就いて其の樹姿の人工的に美麗なるを以て、垂糸桜を推して第一とする。
 谷中天王寺は明治七年以後東京市の墓地となった事は説くに及ぶまい。墓地本道の左右に繁茂していた古松老杉も今は大方枯死し、桜樹も亦古人の詩賦中に見るが如きものは既に大抵烏有となったようである。根津権現の花も今はどうなったであろうか。
 根津権現の社頭には慶応四年より明治二十一年まで凡二十一年間遊女屋の在ったことは今猶都人の話柄に上る所である。小西湖佳話に曰く「湖北ノ地、忍ヶ岡ト向ヶ岡トハ東西相対ス。其間一帯ノ平坦ヲ成ス。中ニ花柳ノ一郭アリ。根津ト曰フ。地ハ神祠ニ因ツテ名ヲ得タリ。祠ハ即根津神社ナリ。祠宇壮麗。祠辺一区ノ地、之ヲ曙ノ里ト称シ、林泉ノ勝ニ名アリ。丘陵苑池、樹石花草巧ニ景致ヲ成ス。而シテ園中桜樹躑躅最多ク、亦自ラ遊観行楽ノ一地タリ。祠前ノ通衢、八重垣町須賀町、是ヲ狭斜ノ叢トナス。此地ノ狭斜ハ天保以前嘗テ一タビ之ヲ開ク。未ダ幾クナラズシテ官新令ヲ下シ、命ジテ之ヲ徹シ去ル。安政中北里災ニ罹リ一時仮館ヲ此ニ設ク。明治ノ初年ニ至リ官復許シテ之ヲ興ス。爾来今ニ至ツテ日ニ昌ニ月ニ盛ナリ。家家娉※[#「女+亭」、第3水準1-15-85]ヲ貯ヘ、戸戸婀娜ヲ養フ。紅楼翠閣。一簇ノ暖烟ヲ屯ス。妓院ノ数今七八十戸ニ下ラズト云フ。」
 わたくしは先年坊間の一書肆に於て饒歌余譚と題した一冊の写本を獲たことがある。作者は苔城松子雁戯稿となせるのみで、何人なるやを詳にしない。然しこの書は明治十年西南戦争の平定した後凱旋の兵士が除隊の命を待つ間一時谷中辺の寺院に宿泊していた事を記述し、それより根津駒込あたりの街の状況を説くこと頗《すこぶる》精細である。是亦明治風俗史の一資料たることを失わない。殊に根津遊廓のことに関しては当時の文書にして其沿革を細説したものが割合に少いので、わたくしは其長文なるを厭わず饒歌余譚の一節をここに摘録する事とした。徒に拙稿の紙数を増して売文の銭を貪らんがためではない。わたくしは此のたびの草稿に於ては、明治年間の東京を説くに際して、寡聞の及ぶかぎり成るべく当時の人の文を引用し、之に因って其時代の世相を窺《うかがい》知らしめん事を欲しているのである。
 松子雁の饒歌余譚に曰く「根津ノ新花街ハ方今第四区六小区中ノ地ニ属ス。三面ハ渾《スベ》テ本郷駒籠谷中ノ阻台ヲ負ヒ、南ノ一方|劣《ワヅカ》ニ蓮池ヲ抱ク。尤モ僻陬ノ一小廓ナリ。莫約《オホヨソ》根津ト称スル地藩ハ東西二丁ニ充タズ、南北|険《ホトン》ド三丁余。之ヲ七箇町ニ分割ス。則曰ク七軒町、曰ク宮永町、曰ク片町等ハ倶ニ皆廓外ニシテ旧来ノ商坊ナリ。曰ク藍染町、曰ク清水町、曰ク八重垣町等ハ僉《ミナ》廓内ニシテ再興以来ノ新巷ナリ。爾《シカ》シテ花街ハ其ノ三分ノ一ニ居ル。昔日ハ即根津権現ノ社内ニシテ而モ久古ノ柳巷《イロザト》ナリ。卒《ツヒ》ニ天保ノ改革ニ当ツテ永ク廃斥セラル。然レドモ猶|有縁《ユカリ》ノ地タルヲモツテ、吉原回禄ノ災ニ罹ル毎ニ、権《シバラ》ク爰《ココ》ニ仮肆《カリタク》ヲ設ケテ一時ノ栄ヲ取ルコト也最《マタ》数回ナリ。其ノ後慶応年間ニ至ツテ、松葉屋某ナル者|魁主《ホツキニン》トナリ、遂ニ旧府ノ許可ヲ禀クルヤ、同志|厠与《アヒトモ》ニ助ケテ以テ稍《ヤウヤ》ク二三ノ楼ヲ営ム。其ノ創立ノ妓楼トイフモノハ則曰ク松葉屋、曰ク大黒屋、曰ク小川屋[#ここから割り注]今東楼ニ改ム[#ここで割り注終わり]曰ク吉田屋[#ここから割り注]後ニ滅却ス現在ノ吉田屋ハ自異ル[#ここで割り注終わり]曰ク金邑屋[#ここから割り注]後ニ岩村楼ニ革メ又吉野屋ニ革ム[#ここで割り注終わり]此ノ他|局店《ツボネミセ》ハ曰ク三福長屋、曰ク恵比寿長屋等各三四戸アリ。徒《タダ》コレニ過ギズ。然ルニ皇制ノ余沢僻隅ニ澆浩シ維新以降漸次ソノ繁昌ヲ得タリ。乍《タチマ》チニシテ島原ノ妓楼廃止セラレテ那ノ輩這ノ地ニ転ジ、新古互ニ其ノ栄誉ヲ競フニオヨンデ、好声一時ニ騰々タルコトヲ得タリ。[#ここから割り注]中略[#ここで割り注終わり]現在|大楼《オオミセ》ト称スル者今其ノ二三ヲ茲ニ叙スレバ即曰ク松葉楼[#ここから割り注]俚俗大松葉ト称ス即創立松葉屋是也[#ここで割り注終わり]曰ク甲子楼[#ここから割り注]即創立大黒屋是也[#ここで割り注終わり]曰ク八幡楼、曰ク常盤楼、曰ク姿楼、曰ク三木楼等、維們《コレラ》最モ群ヲ出ヅ。漸次之ニ序《ツ》グ者、則チ曰ク大磯屋、曰ク勝松葉、曰ク湊屋、曰ク林屋、曰ク新常磐屋、曰ク吉野屋、曰ク伊住屋、曰ク武蔵屋、曰ク新丸屋、曰ク吉田屋等極メテ美ナリ。自余《コノホカ》或ハ小店ト称シ、或ハ五軒ト号《ナヅ》ケ、或ハ局ト呼ブ者ノ若キハ曾テ算フルニ遑アラズ。[#ここから割り注]中略[#ここで割り注終わり]且又茶屋ハ梅本、家満喜、岩村等ト曰フモノ大ニ優ル。自余《コノホカ》大和屋、若松、桝三河ト曰フモノ僉《ミナ》創立ノ旧家ナリト雖亦|杳《ハルカ》ニ之ニ劣レリ。将又券番、暖簾《ウチゲイシヤ》等ノ芸妓ニ於テハ先ヅ小梅、才蔵、松吉、梅吉、房吉、増吉、鈴八、小勝、小蝶、小徳|們《ラ》、凡四十有余名アリ。其他ハ当所ノ糟粕ヲ嘗ムル者、酒店魚商ヲ首トシテ浴楼《ユヤ》箆頭肆《カミユヒドコ》ニ造《イタ》ルマデ幾ド一千余戸ニ及ベリ。総テ這地《コノチ》ノ隆盛ナル反ツテ旧趾ノ南浜新駅《シナガハシンジユク》ヲ羞シムベキ景勢ナリ。然リト雖モ其ノ諸《コレ》ヲ吉原ニ比較スレバ縦《タト》ヘ大楼ト謂フ可キモ亦カノ半籬ニモ及ブ可カラズ。其ノ余ハ推シテ量ル可キナリ矣。」
 根津の遊里は斯くの如く一時繁栄を極めたが、明治二十一年六月三十日を限りとして取払われ、深川洲崎の埋立地に移転を命ぜられた。娼家の跡は商舗または下宿屋の如きものとなったが、独八幡楼の跡のみ、其の庭園の向ヶ岡の阻崖に面して頗《すこぶる》幽邃《ゆうすい》の趣をなしていたので、娼楼の建物をその儘に之を温泉旅館となして営業をなすものがあった。当時都下の温泉旅館と称するものは旅客の宿泊する処ではなくして、都人の来って酒宴を張り或は遊冶郎の窃《ひそか》に芸妓矢場女の如き者を拉して来る処で、市中繁華の街を離れて稍《やや》幽静なる地区には必《かならず》温泉場なるものがあった。則《すなわち》深川仲町には某楼があり、駒込追分には草津温泉があり、根岸には志保原伊香保の二亭があり、入谷には松源があり、向島秋葉神社境内には有馬温泉があり、水神には八百松があり、木母寺の畔には植半があった。明治七年に刊行せられた東京新繁昌記中に其の著者服部撫松は都下の温泉場を叙して、「輓近又処々ニ温泉場ヲ開クモノアリ。各諸州有名ノ暄池《ヲンセン》ヲ以テ之ニ名ク。曰ク伊豆七湯、曰ク有馬温泉、曰ク何、曰ク何ト。蓋シ其温泉或ハ湯花ヲ汲来ツテ之ヲ湯中ニ和スト云フ。[#ここから割り注]中略[#ここで割り注終わり]方今深川ノ仲街ニ開ク者ヲ以テ巨擘トナス。[#ここから割り注]中略[#ここで割り注終わり]俳優沢村氏新戯場ヲ開カントシテ未ダ成ラズ。故ニ温泉場ヲ開イテ以テ仲街ノ衰勢ヲ挽回セントスル也。建築ノ風一妓楼ノ如ク、楼ニ接シテ数箇ノ小茶店アリ。各酒肴ヲ弁ジ、且ツ絃妓ヲ蓄フ。亦花街ノ茶店ニ異ラズ。此楼モトヨリ浴ス可ク又酔フ可ク又能ク睡ル可シ。凡ソ人間ノ快楽ヤ浴酔睡ノ三字ニ如クハ無シ。一楼ニシテ三快ヲ鬻グ者ハ亦新繁昌中ノ一洗旧湯ナリ。」と言っている。
 小説家春の家おぼろの当世書生気質第十四回には明治十八九年頃の大学生が矢場女を携えて、本郷駒込の草津温泉に浴せんとする時の光景が記述せられて居る。是亦当時の風俗を窺う一端となるであろう。其文に曰く、「草津とし云へば臭気《にほひ》も名も高き、其本元の薬湯を、ここにうつしてみつや町に、人のしりたる温泉あり。夏は納涼、秋は菊見遊山をかねる出養生、客あし繁き宿ながら、時しも十月中旬の事とて、団子坂の造菊も、まだ開園にはならざる程ゆゑ、この温泉も静にして浴場は例の如く込合へども皆湯銭並の客人のみ、座敷に通るは最稀なり。五六人の女婢手を束ねて、ぼんやり客俟の誰彼時、たちまちガラ/\ツとひきこみしは、たしかに二人乗の人力車、根津の廓からの流丸《それだま》ならずば権君御持参の高帽子、と女中はてん/″\に浮立つゝ、貯蓄《とつとき》のイラツシヤイを惜気もなく異韻一斉さらけだして、急ぎいでむかへて二度吃驚、男は純然たる山だし書生。」云々
 根津の娼楼八幡屋跡の温泉旅館は明治三十年頃には紫明館と称していた。その頃わたくしは押川春浪井上唖々の二亡友と、外神田の妓を拉して一夜紫明館に飲んだことを覚えている。四五輛の人力車を連ねて大きな玄関口へ乗付け宿の女中に出迎えられた時の光景は当世書生気質中の叙事と多く異る所がなかったであろう。根津の社前より不忍池の北端に出る陋巷は即《すなわち》宮永町である。電車線路のいまだ布設せられなかった頃、わたくしは此のあたりの裏町の光景に興味を覚えて之を拙作の小説歓楽というものの中に記述したことがあった。
 明治四十二三年の頃鴎外先生は学生時代のむかしを追回せられてヰタセクスアリス及び雁と題する小説二篇を草せられた。雁の篇中に現れ来る人物と其背景とは明治十五六年代のものであろう。先生の大学を卒業せられたのは明治十七年であったので、即春の家主人が当世書生気質に描き出されたものと時代を同じくしているわけである。小説雁の一篇は一大学生が薄暮不忍池に浮んでいる雁に石を投じて之を殺し、夜になるのを待ち池に入って雁を捕えて逃走する事件と、主人公の親友が学業の卒《おえ》るを待たずして独逸に遊学する談話とを以て局を結んでいる。今日不忍池の周囲は肩摩轂撃《けんまこくげき》の地となったので、散歩の書生が薄暮池に睡る水禽を盗み捕えることなどは殆ど事実でないような思いがする。然し当時に在っては、不忍池の根津から本郷に面するあたりは殊にさびしく、通行の人も途絶えがちであった。ここに雁の叙景文を摘録すれば、「其頃は根津に通ずる小溝から、今三人の立つてゐる汀まで、一面に葦が茂つてゐた。其葦の枯葉が池の中心に向つて次第に疎になつて、只枯蓮の襤褸のやうな葉、海綿のやうな房《ばう》が碁布せられ、葉や房の茎は、種々の高さに折れて、それが鋭角に聳えて、景物に荒涼な趣を添へてゐる。此の bitume 色の茎の間を縫つて、黒ずんだ上に鈍い反射を見せてゐる水の面を、十羽ばかりの雁が緩やかに往来してゐる。中には停止して動かぬのもある。」

 此の景は池之端七軒町から茅町に到るあたりの汀から池を見たものであろう。作者は此の景を叙するに先だって作中の人物が福地桜痴の邸前を過ぎることを語っている。桜痴居士の邸は下谷茅町三丁目十六番地に在ったのだ。
 当時居士は東京日日新聞の紙上に其の所謂「吾曹」の政論を掲げて一代の指導者たらんとしたのである。又狭斜の巷に在っては「池の端の御前」の名を以て迎えられていた。居士が茅町の邸は其後主人の木挽町合引橋に移居した後まで永く其の儘に残っていたので、わたくしも能く之を見おぼえている。家は軽快なる二階づくりで其の門墻も亦極めていかめしからざるところ、われわれの目には富商の隠宅か或は旗亭かとも思われた位で、今日の紳士が好んで築造する邸宅とは全く趣を異にしたものであった。
 茅町の岸は本郷向ヶ岡の丘阜を背にし東に面して不忍池と上野の全景とを見渡す勝概の地である。然しわたくしの知人で曾てこの地に卜居した者の言う所によれば、土地陰湿にして夏は蚊多く冬は湖上に東北の風を遮るものがないので寒気甚しくして殆ど住むに堪えないと云うことである。
 不忍池の周囲は明治十六七年の頃に埋立てられて競馬場となった。一説に明治十八年とも云う。中根淑の香亭雅談を見るに「今歳ノ春都下ノ貴紳相議シテ湖ヲ環ツテ闘馬ノ場ヲ作ル。工ヲ発シ混沌ヲ鑿ル。而シテ旧時ノ風致全ク索《ツ》ク矣。」と言っている。雅談の成った年は其序によって按ずれば癸未暮春[#ここから割り注]明治十六年[#ここで割り注終わり]である。また巻尾につけられた依田学海の跋を見れば明治十九年二月としてある。
 香亭雅談には又江戸時代の文人にして不忍池畔に居を卜したものの名を挙げて下の如くに言っている。「古ヨリ都下ノ勝地ヲ言フ者必先ヅ指ヲ小西湖ニ屈スルハ其山水ノ観アルヲ以テナリ。服部南郭、屋代輪池、清水泊※[#「さんずい+百」、第4水準2-78-45]、梁川星巌、深川永機等皆一タビ、跡ヲ湖上ニ寄ス。爾来文人韻士ノ之ニ居ル者鮮シトナサズ。」
 服部南郭の不忍池畔に住んだのは其文集について按ずるに享保初年の頃で、いくばくもなくして本郷に移り又芝に移った。南郭文集初編巻の四に即事二首篠池作なるものを載せている。其一に曰く「一臥茅堂篠水陰。長裾休[#レ]曳此蕭森。連城抱[#レ]璞多時泣。通邑伝[#レ]書百歳心。向[#レ]暮林烏無数黒。歴[#レ]年江樹自然深。人情湖海空迢※[#「二点しんにょう+帶」、145-11]。客迹天涯奈[#二]滞淫[#一]。」
 屋代輪池は幕府の右筆にして著名の考証家屋代大郎である。清水泊※[#「さんずい+百」、第4水準2-78-45]は和学者村田春海の門人清水浜臣で、此二人はいずれも大田南畝と時を同じくした人であるが、わたくしはまだ此二家の不忍池畔にいた時の年代を調査する遑がない。俳諧師永機の事も亦寡識の及ばざる所である。詩人梁川星巌の不忍池畔に居ったのは天保十年の夏より冬に至る間のことで画家酒巻立兆なるものの家に寓していたのである。是の事は既に拙著下谷叢話の中に記述してある。
 香亭雅談には言われていないが、服部南郭の門人宮瀬氏[#ここから割り注]劉龍門という[#ここで割り注終わり]も明和安永の頃不忍池のほとりに居を卜した。大田南畝が壮時劉龍門に従って詩を学んだことも、既にわたくしは葷斎漫筆なる鄙稿の中に記述した。
 南郭龍門の二家は不忍池の文字の雅馴《がじゅん》ならざるを嫌って其作中には之を篠池と書している。星巌及び其社中の詩人は蓮塘と書し又杭州の西湖に擬して小西湖と呼んだ。星巌が不忍池十詠の中霽雪を賦して「天公調[#二]玉粉[#一]。装飾小西湖。」と言っているが如きは其一例である。維新の後星巌の門人横山湖山が既に其姓を小野と改め近江の郷里より上京し、不忍池畔に一楼を構えて新に詩社を開いた。是明治五年壬申の夏である。湖山は維新の際国事に奔走した功により権弁事の職に挙げられたが姑くにして致仕し、其師星巌が風流の跡を慕って「蓮塘欲[#レ]継梁翁集。也是吾家消暑湾。」と言った。然し幾くもなくして湖山は其居を神田五軒町に移した。
 明治年間池塘に居を卜した名士にして、わたくしの伝聞する所の者を挙ぐれば既に述べた福地桜痴小野湖山の他には篆刻家中井敬所と箕作秋坪との二人があるのみである。
 わたくしは甚散漫ながら以上の如く明治年間の上野公園について見聞する所を述べた。明治時代の都人は寛永寺の焼跡なる上野公園を以て春花秋月四時の風光を賞する勝地となし、或時はここに外国の貴賓を迎えて之を接待し、又折ある毎に勧業博覧会及其他の集会をここに開催した。此の風習は伝えられて昭和の今日に及んでいる。公園は之がために年と共に俗了し、今は唯病樹の乱立する間に朽廃した旧時の堂宇と、取残された博覧会の建築物とを見るばかりとなった。わたくしをして言わしむれば、東京市現時の形勢より考えて、上野の公園地は既に狭隘に過ぐる憾《うらみ》がある。現時園内に在る建築物は帝室博物館と動物園との二所を除いて、其他のものは諸学校の校舎と共に悉く之を園外の地に移すべく、又谷中一帯の地を公園に編入し、旧来の寺院墓地は之を存置し、市民の居宅を取払ったならば稍規模の大なる公園となす事ができるであろう。
 明治三十年頃までは日暮里から道灌山あたりの阻台は公園にあらざるも猶公園に均しき閑静の地であった。
 上野公園地丘陵の東麓に鉄道の停車場が設けられたのは明治十六年七月である。停車場及鉄道線路の敷地となった処には維新前には下寺《したでら》と呼ばれた寛永寺所属の末院が堂舎を連ねていた。此処に停車場を建てて汽車の発着する処となしたのは上野公園の風趣を傷ける最大の原因であった。上野の停車場及倉庫の如きは其の創設の当初に於て水利の便ある秋葉ヶ原のあたりを卜して経営せられべきものであった。然し新都百般の経営既に成った後之を非難するは、病の膏盲に入った後治療の法を講ぜんとするが如きものであろう。東京の都市は王政復古の後早くも六十年の星霜を閲しながら、猶防火衛生の如き必須の設備すら完成することが出来ずにいる。都市のことを言うに臨んで公園の如き閑地の体裁について多言を費すのは迂愚の甚しきものであろう。